ケニアの永住権、
2014年12月30日に申請、
半年後に秘密警察の人からの厳しい面接を受け、
1年後に「来週」と言われ、
1年1か月後に「あとこれとこれ」と追加提出書類を依頼され、
その追加で提出した書類がしっかりと届かずに、
1年半後に再度提出し、
その後は「あと2週間後」「あと3週間後」「来月」などと言われ続け、
そうこうしている間に労働許可証の期限も切れ、
諸事情を考慮して労働許可証の延長もやめて(あきらめて)、
永住権を待っているということで特別なケニア滞在延長の手続きを2回もして、
ずっとずっと永住権の最終面接の呼び出しを待っていたのです。
申請して2年3か月、
ついに呼び出しの電話が鳴りました。
正直、とっても大事なことの割には、
電話はあっけなく、
1週間後の面接の日時と持ち物などを言い渡されただけ。
幸い、建設現場監督も小休止していたために、
黒焦げの日焼けも和らぎつつあり、
日光による火傷でただれていた唇もほぼ治癒しており、
シャドラックくんの喪もほぼ終わって日常生活に戻り、
準備万端。
日帰りでは交通渋滞で遅れてしまう危険性があったので、
前日にナイロビ入りすることに。
長女ノゾミと次女ヒカリはジョイス先生のおうちに預け、
咳をしていたノゾミのために薬を買ってあげて、
(私がいれば薬なんて要らないのですが、一般の人は薬があるだけで安心しますから)
妻ジャシンタとともにナイロビに出発しました。
いやいや、最近のケニアの乾季は暑い暑い。
バスターミナルまで歩くだけで汗と疲労。
たまたま同じバス(マタトゥ)に、
キラキラ3年生のデボラさんのお父さんと、
キラキラ4年生のヤハヤくんのお父さんも乗り込み、
みんな「暑い暑い」などとぼやいていました。
最近、ナマンガ発ナイロビ行きのバスは、
国境の検問を受けてから出発することになったようで、
バスは検問所の駐車場へ入って行きました。
そこで、車に乗ったまま、
検察官が一人一人のパスポートや身分証を確かめていきます。
私の番になり、検察官さんから2つ3つ質問、
そして、「車から降りて事情を説明して」と言われてしまいました。
特別延長でケニアに滞在している私には、
それなりの事情がないといけないのです。
幸い、永住権を待ち続けていて、
今日はその最終面接のためにナイロビに行く、と説明すると、
難なく放免されました。
テロなどで治安悪化のケニアですが、
治安維持の努力もかなりしています。
不法滞在の外国人への取り締まりが、
かなり強化されているのです。
「暑い暑い」と言いながら、
4時間かけてナイロビに到着です。
既に夕方。
数か月ぶりのナイロビとあって、
そのスピード感、人の多さ、喧騒ぶりに、
ちょっと圧倒されます。
1泊2人2000円の、
安宿~中級宿に泊まりますが、
外の喧騒もあって眠りは浅くなります。
翌朝、2017年3月14日(火)、
数時間後に迫った最終面接に向けて、
ゆっくり念入りに準備です。
トイレ事情が良くないケニアでは、
外出時にトイレを使う必要がないように、
飲食に気を付ける必要があり、
身体の中に何もない状態にして出かけるようにします。
出頭時刻は11時と聞いていたのですが、
念のため、早めの9時に到着します。
早速、人の列!
永住権の最終面接を待つ夫婦たちです。
今日の面接は、
ケニア人と結婚している外国人配偶者たちが対象のようです。
白髪の欧米人男性が多いのにびっくりです。
私とジャシンタの結婚生活はせいぜい13年ですが、
皆さん、20年、30年という結婚生活の長い年月を経て、
ケニアの法制度が変わったおかげでようやく永住権の申請ができたのでしょうね。
ケニア人男性と結婚している日本人女性Yさん。
「日本の方ですか?」
「はい、そうです」
から会話が始まり、
いろいろと情報交換。
永住権を取るまでの平均はやはり2年半くらい、とのこと。
ただ、Yさんは何と1年半で最終面接まで来た、と。
タイミングや運などもあるのでしょうが、
女性の方が男性よりも取りやすい、という噂はやはり本当なのでしょう。
カナダ人男性と結婚しているケニア人女性が、
私がジャシンタとしゃべっているのに聞き耳を立てて、
「何であなたはそんなにスワヒリ語が上手なの?」と、
驚きを隠せない感じで話しかけて来ました。
ケニアといっても広く、
ナマンガやモンバサ方面などではスワヒリ語が主流なのですが、
他の地域では部族語が主流だったり、
ナイロビなどでは英語だけで十分生活と仕事ができるので、
スワヒリ語がしゃべれない外国人が意外に多いのです。
そのカナダ人男性とケニア人女性が、
その日に集まった中で見た目ではいちばん若い夫婦。
結婚して3年で永住権を申請し、
2年10か月待ってようやく最終面接に呼ばれた、と。
「僕も数年後にはスワヒリ語をペラペラしゃべれるようになりたい」
と緊張でおどおどしながらも無邪気に話すカナダの男性。
若く、まだまだ人生経験も浅いこの夫婦、
心から応援したくなってしまいました。
2時間以上、立ったまま待たされ、
30分前からは、面接会場前に置かれた椅子に座って待ちました。
面接を終えて出てきた夫婦のケニア人女性の方が、
小さく親指でガッツポーズをしながら私たちに目くばせして帰って行きました。
その表情、本当に嬉しそう。
やはり、永住権を待ちながら気が気ではなかったのでしょう。
私とジャシンタだけが苦しんでいたわけではないようです。
日本人のYさんが面接を終えて出て来て、
すぐに私の耳元で、
「聞いていた通り、自己紹介がメインでした」と。
早速私はカナダ人男性にその情報をささやきました。
不思議なことに、
最終面接の順番が近付くにつれて、
緊張感は徐々に減じ、リラックスし、
感無量の喜びがこみ上げてきました。
私たち同様に苦しんでた同朋たち。
サービスの良い職員たち。
いざ、私たちの番になりました。
前に3人。責任者を真ん中に、副責任者2人が両側。
左に3人。
右に3人。
きっとそれぞれに、
書記だったり、
担当項目をチェックする人だったりするのでしょう。
責任者がまず話を始めます。
やはり、まずは私の自己紹介です。
満を持して、まずは英語で話し始めます。
この貴重な機会をくださったケニア政府と、
ここにいらっしゃる職員の皆さまに感謝します。
そして、神様に感謝します、と。
そして、
私が普段生活の中で使っているのはスワヒリ語であり、
ぜひスワヒリ語でしゃべらせてほしい、と言い、
OKをもらい、
ナイロビの人にとっては恐らく流ちょうな私のスワヒリ語で、
堂々と自己紹介していきました。
日本の埼玉出身、
埼玉は東京の近郊、ベッドタウン、
そこで小・中・高に通い、
大学は新潟という町で通い、
高校時代に将来途上国で支援活動するというビジョンを得て、
高校・大学時代に留学や旅行などで海外に何度も出て、
大学時代にアフリカも訪れて、
アフリカで支援活動をするという計画を具体的に考え始め、
大学は医学部で、
卒業後は大学病院の小児科で勤務していたものの、
それを休止してケニアのナマンガにやって来て、
支援活動を始める準備を進め、
同時に旅行者時代から知り合っていたこのジャシンタと結婚し、
その後、2人の娘に恵まれ、
支援活動、学校運営なども軌道に乗り、
いろいろな状況を考慮して、生活の基盤をケニアにしたいと考え、
この度永住権を申請する機会が得られたことを本当に感謝している。
印象として、職員の皆さんは、
私の流ちょうなスワヒリ語をたいそう喜び、聞きほれ、
話の内容は半ば聞き流していた感じでした。
現地の人並みに、
いや、ある意味それ以上に(ナイロビの住民以上に)、
スワヒリ語を操るということだけでも、
ケニアのコミュニティーに深く入り、
ケニアを愛し、
ケニア人を愛するという姿勢をアピールするに十分だったのでしょう。
そういうわけで、
私による自己紹介にすっかり満足してしまった職員の皆さんからは、
全く質問を受けることもなく、
ただ、妻ジャシンタが、
「何か追加することがあったらどうぞ」
と言われて、
妻の視点から私の自己紹介の補足説明を少ししただけでした。
そして、私たちは6分くらいで放免され、
面接会場を出ました。
9時に来て、放免が12時50分。
最終面接まで来たら、もう落とされることはない。
あとは数日後に承認の連絡があり、支払いをし、
数週間後に正式な取得となる。
こういう楽観的な話を聞いてはいましたが、
最終面接を経て、確信に変わりました。
私たちの後の人たちに喜びの目くばせをし、
階段を下りて、
役所の外に出て、
ナイロビの空気が美味しく感じられました。
疲労困憊しながらも、
滅多に来ないナイロビでいろいろ買い物などをする時間が持てました。
ナイロビの繁華街で、
ナイロビ在住日本人のIさんに遭遇。
やはり、ここでも情報交換。
ケニア滞在の件、
私だけでなく日本人はみんな苦労していますね。
その後、徐々に徐々に、
私は脱水症状に陥ってしまいました。
長時間の外出のために水分摂取を制限し、
さらに、役所内で立ったまま待たされている間も、
じわじわと暑くて汗をかき続けていたこともあったのでしょう。
唇が渇き、指先まで痛くなるほど。
水分をたくさん買って、
帰りのバス(マタトゥ)に乗り込みました。
一時はあくびがひっきりなしに出るくらいまで症状が悪化したのですが、
ひたすら水やジュースを飲み続けたことと、
夕方の風が心地よく窓から入り始めたことで、
徐々に徐々に体調は回復。
ナマンガの家に帰りつき、
水を飲み続け、
尿も汗もしっかりと出始め、
しっかりと眠り、
翌日の昼には日常に復帰することができました。
永住権の件、
十中八九、もう決まりと言って良いとは思うのですが、
まだ決まったわけではありません。
最後のつめの祈り、感謝の祈りをしつつ、
吉報を待ちます。
相原 記