アフリカでのこども支援 「キラキラ・プロジェクト」 + それを日本で後援  「キラキラを支える会」


by kjkirakira
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<   2017年 03月 ( 10 )   > この月の画像一覧

体育会系のキラキラ

3月末の教職員会議では、
アレックス先生が体育についてプレゼンし、
それに関して各人が意見などを出し合い、
とても有意義な会となりました。

私としても、
体育はキラキラで最も力を入れたい分野です。

しかし、ケニアの学校では、
体育嫌いな先生方が多く、
さらに、試験の点数の競争も激しいために、
体育の授業をつぶして学科の補習を行うなどが日常茶飯で、
試験の出来る子ばかりが優遇され、
体育だけ出来る子が冷遇されるきらいにあり、
アフリカのこどもたちのせっかくの運動神経や体力が伸びず、
黄金の原石が磨かれずに腐ってしまっているのです。

しかし、体育はとても重要です。

ケニア人は体育で飯が食える!
頑張れば世界のトップ・マラソンランナーになれるのです。

実社会では体を使った職業ばかりです。

例えば医師、
頭脳労働というより肉体労働です。
睡眠時間を削りながら、
病院内をあちこち走り回り、
長時間におよぶ処置や手術に臨み、
常にチームワークで働く。

例えば建設職人、
ときには24時間労働になることも。

教師も例外ではありません。
あちこち動き回りながら児童と交流すればこそ、
よりきめ細かい指導ができるのです。

よく文系・理系と言いますが、
体育会系・文化会系で分けることもあり、
体育会系を好んで雇用する職場も多いです。
私もキラキラでは体育会系を好んで雇いたい。

パソコンで飯が食えるのは、
人類史の中でせいぜい100年くらいでしょう。
しかし、鋤や鎌や斧や鋸や金槌などでは、
人類史6000年間食いっぱぐれがありません。

プレゼンしてもらったアレックス先生は、
キラキラに雇われた際の最初の質問が、
「キラキラでは体育はするのか?」
ということでした。
「キラキラでは体育をするよ!」
という返答を得て、
アレックス先生の目は輝きました。
私も、そんな先生を雇うことができて心躍りました。

実際に、アレックス先生は、
積極的に児童たちに体育を指導してくれており、
そればかりでなく、
教室で学科を指導している時も、
お掃除などのお仕事を監督している時も、
フットワーク軽やかに児童たちを巡回してくれています。

キラキラの方針や、
アレックス先生などの頑張りもあり、
キラキラでは体育を頑張ることが定着してきています。

新参の先生方も、
頭では体育の重要性がわかっているようです。
あとは実践あるのみ。

そして、いちばん重要なのは、
キラキラが目指す大切な方向性、
つまり、弱い者にとって優しい学校でありたい、ということ。

児童全員が体育好きであるわけではありません。
体育が苦痛な子もいます。
休み時間に大多数がサッカーをしている傍らで、
砂いじりばかりしている子もいます。
みんなに身体を使う仕事をさせると、
できるだけ避けて怠けようとする子もいます。
そんな、少数の子にも十分に配慮しながら、
教職員の皆さんには体育の指導と実践を頑張って行ってほしいものです。

3月のお給料も一人一人に手渡しました。
中には、給料を受け取りながら、
「神様の祝福を!」と一言残していく先生もいます。

こうして無事に月末を迎えることができ、
感謝の気持ちでいっぱいです。

その場でキラキラ運営のマイクロファイナンス(小規模金融)に預金する先生もおり、
宵越しの金は持たないのが常だったかつてのアフリカとは見違えるほどに、
みなが計画的に人生を営んでいます。

日本では年度が変わりますね。
4月も、新年度も、
励まし合って頑張ってまいりましょう。


相原 記


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by kjkirakira | 2017-03-31 23:17 | 現地で 保育園+小学校

法律順守の国境

先日の小暴動を受けて、
ケニア側ナマンガの警察署前にて、
市民向けの移民法の説明会が開催されました。

そこで語られた内容は、
私は既によく知っている内容だったのですが、
一般市民にとってはなかなか理解できない内容だったようです。

というよりも、
これまでのアフリカ的おおらかさ、
すなわち、国境なんだから自由でいいじゃん、
という考え方を変えたくないので、
新しい知識を脳が無意識に拒んでしまっているようです。

さらに、先日暴動の先陣を切って、
タイヤや電線を燃やしていた若者たちは、
相変わらず暴力的に、
「タンザニアがケニア人を締め出すのなら、
俺たちもケニアにいるタンザニア人を締め出す!」
と主張し続ける始末。

ケニアとタンザニアの国際結婚の中で、
最も多く、我々の身近にも多いのは、
ケニア人男性とタンザニア人女性の夫婦で、
ケニア側に住んでいるというパターン。

この場合、移民法的には、
タンザニア人妻はしっかりとパスポートを取得し、
それをもってとりあえずケニア側に入国し、
ケニア行政が発行する結婚証明書を取得し、
それをもってケニアの移民局で扶養ビザ(配偶者ビザ)を取得し、
その状態で3年経てばタンザニア国籍のままケニア永住権を申請することができ、
その状態で7年経てばケニア国籍を申請することができる、
というもの。

さらに、タンザニア人妻がケニアで労働したければ、
労働許可証を取得しなければならないわけですが、
ここの説明はちょっとあいまいでした。

生まれてきた子がどうなるかという件の説明はありませんでした。
しかし、明らかに、こどものうちは両国籍が認められるわけです。

国籍に関しては、
ケニアは2010年の憲法改正に伴う移民法改正により、
二重国籍の取得が可能になりました。
しかし、タンザニアはまだ二重国籍を認めておらず、
例外として、外国人と結婚した女性およびその18歳未満の子、が挙げられています。
つまり、ケニア人と結婚したタンザニア人女性が、
ケニアで扶養ビザを取って7年後にケニア国籍を申請して、取得できたあかつきには、
見事に両国籍保持者となれるのです。

しかし、タンザニア政府でも、2016年以降、
二重国籍を可能にするべきであるという議論が高まっており、
世界中の潮流からしても、近い将来可能になると考えられます。

ちなみに、日本はというと、
あの政治家の問題に絡んで、
二重国籍が大きく取り上げられたこともありましたが、
それとは別にも、国際結婚の増加や世界的な潮流と併せて、
二重国籍を可能にするべきという議論が高まりつつありますね。

現在の法律では、
ケニアは二重国籍を認めるも、
日本が認めないために、
ノゾミやヒカリのような子は、
22歳になったらどちらかの国籍を選択しなければならないのです。
彼女らが22歳になるまでに、
日本の法律が変わることを願い祈るばかりです。

私としては、
移民法の適応が隣国タンザニア人に至るまで達したこの時期、
タイミング良く滑り込みでケニアの永住権の承認が得られ、
法律的に何の問題もなくケニアにいられることはありがたいことです。

ホットな話題として、
身内が国際結婚しているような友人・知人からも、
「あんたんところは大丈夫?」
などと声がかかり始めていますから。

国境なんて関係ない、
いつも平和で自由に行き来したり愛し合えたりできる世界が好ましい。
しかし、現状は、各国が治安維持・秩序維持に努める必要があり、
移民法による規制は不可欠です。

ぜひ、私の身近に多くいる、
ケニア人男性と結婚したタンザニア人女性の皆さんにも、
一つずつ、法律順守をクリアしていくよう、
少しずつ勧めていきたいと思います。


相原 記


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by kjkirakira | 2017-03-30 23:56 | 現地で 全般・他

緊迫の国境!

私たちがいるケニア共和国ナマンガは
タンザニアに接する国境の町。

国境ということで、
商売や交通の要衝であり、
近年は人口増と再開発で活況を呈しているものの、
田舎町ののどかさがあり、
住民はある意味平和ボケしていました。

しかし、先日、3月27日、
久々にナマンガ国境で緊迫した事態に陥りました。

ケニア、タンザニア両国ともに、
治安維持のためと、
自国の経済活性化のために、
違法な在留外国人に対する取り締まりが強化されていました。

そんな状況下でも、
初めからケニア人女性との結婚証明書を取得しており、
この度ケニアの永住権の承認を得ることができた外国人である私は、
法的に何の責めも負い目もありません。

しかし、多くの外国人たちが、
パスポートなし、査証なし、適切な書類なしで違法滞在を続けているのです。

とくに、ケニアとタンザニアの国境周辺は無秩序で、
多くのケニア人がタンザニアで暮らし、結婚し、働き、
多くのタンザニア人がケニアで暮らし、結婚し、働いているのです。

もともと国境のなかったところに、
ヨーロッパの列強諸国が勝手に国境線を定規で引っ張っただけ、ということで、
これまでは黙認されてきました。

しかし、徐々に徐々に規制強化の雰囲気は高まりつつありました。

例えば学校教育の現場では、
タンザニア人の子弟がケニアの学校に越境通学することは激減してきています。

キラキラもその流れを見越して、
タンザニア人の新規入園・入学を制限・禁止し、
タンザニア本国への転出を奨励する方向で、
ここ数年はタンザニア人の在校生が激減してきています。

この度、
タンザニアで生活して仕事をしているケニア人たちが、
違法ということで逮捕され、
裁判にかけられることになりました。

中には何十年もタンザニアにいて、
これまで何の咎めも受けることのなかった人もいるのです。

そのことに関して、
ナマンガ国境の広場にて、
ケニア、タンザニア両国の国境職員たちによる
公開の話し合いがもたれることになりました。

そこで、暴動が発生したのです。

車両の国境越えを阻止するべく、
道路の真ん中で古タイヤが焼かれ、
タンザニア側がケニア側から利益を受けることがないようにと、
ケニア側からタンザニア側に伸びている電線が焼かれ、
タンザニア人を家政婦として雇っている裕福なケニア人家庭が襲撃され、
国境地帯は一時はかなり緊迫した空気に包まれたようです。

ついには催涙ガスがまかれ、
国境地帯で暴動に参加していた人たちややじ馬たち、
さらには普通に働いていた人たちも散らされて、
何とか夕方には暴動がおさまりました。

ちょうど、その催涙ガスがまかれた16時には、
キラキラ保育園の下校が終わり、
キラキラ小学校の下校が始まろうとしていました。

国境地帯から来たオートバイの運転手などに情報収集しつつ、
国境地帯を通り抜けて帰宅する児童たちを選り分け、
彼らが安全に帰宅できるように、
大人の引率を付けたり、
遠回りして家にたどり着くように指示したりして、
みんなを送り出しました。

幸い、死傷者も出ず、
物損なども最小限で食い止められ、
事は今後の話し合いに託されることになりました。

もともと国境なんてなかったところ、
国籍なんて関係なく、おおらかに共存していきましょう、といった、
古き良きアフリカの価値観を持ち続けることはとても大切ですが、
世界中の国々が国境に囲まれた近代国家として成長しつつあり、
無秩序や戦争を回避するために最低限の規制が必要になっている昨今、
もはや古き良きアフリカの幻想だけでは共存できないのが現実です。

やはり、これからは、
同じナマンガとはいえ、
国境を越えて隣国で何かしようとしたら、
最低限の法的規定をクリアしながらやって行くべきでしょう。

隣国の滞在許可証、労働許可証を取得する、
隣国の人との結婚証明書を取得する、
ケニア人・タンザニア人の間に生まれた子は二重国籍をしっかりと取得する、
他いろいろ。

その際に、隣国ゆえに多少とも条件を緩くしてあげるのが良いでしょう。
遠い日本から来た私が苦労しながら厳しい条件をクリアしていったのと同じでは、
国境を接する隣国の人にはハードルが高すぎますから。

さらに、これまで長い間隣国にいた人を優遇し、
新規に隣国に行く人とは区別しても良いかもしれません。

そして、急に力づくで逮捕したり裁判にかけてしまうのではなく、
ある程度長い年月をかけながら、
徐々に徐々に法順守を徹底していくのが良いでしょう。

理想はあくまで、
国境のない世界、
国境関係なく生き、愛し合い、働く、ということです。

しかし、当面は、治安維持や秩序維持のために、
しっかりと平和的にみなが法を順守できるように、
各政府が現実的な対策を取っていくべきでしょう。

アメリカのトランプ大統領さま、
あなたが否応なしに世界のリーダー、模範になります。
お願いですから、現実的で、理解ある政策実施をお願いします!

理想的な国境なき世界が実現する日を夢見ながら、
現実で正しく生きてまいりましょう。


相原 記


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by kjkirakira | 2017-03-28 15:30 | 現地で 全般・他
ケニア永住権の承認通知を受け取ったその日、
わかりにくいオンライン手続きのことで移民局と電話でやり取りしたうえで、
クレジットカードでの支払い(規定の5万シリング=5万円少々)を済ませ、
翌日、いざ、ナイロビへ!

ケニアでは、
ケニア人のパスポート申請も、
外国人のビザや許可証や永住権なども、
移民局関係の業務は全てオンラインになっているのです。

とはいえ、オンラインで手続したうえで、
必要な紙を印刷して移民局に提出しに行かなければならないのです。

正直、オンラインでなかった時代よりも複雑になってはいますが、
過渡期ゆえの辛抱であり、
徐々に徐々に簡便さが増していくことでしょう。

ただ、返事を聞くためだけにやきもきしながらわざわざナイロビまで行き、
窓口の行列に並び、「まだ」の一言を聞いてすぐにナマンガに引き返すという、
ストレスの多い無駄なナイロビ行がなくなっただけでも大万歳です。

というわけで、
永住権の支払いを済ませたという書類を持参して、
ストレスのない軽やかな気分でナイロビへ。

書類を提出し、
多分1週間後には正式な取得(証書の発行)になるだろう、
その連絡を待てと言われ、
あっという間に用事を終えて移民局を出ました。

心なしか、移民局の職員の皆さんが、
とっても礼儀正しく親切な印象を受けました。

あとは、ナイロビ市街地で買い物や用事でいろいろ周り、
夕方にはナマンガに帰着することができました。

正式取得まであと少し!
ここまで来て、紛失や間違いや遅延などのトラブルが発生しないよう、
まだまだ油断せずに待たなければなりません。


相原 記


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by kjkirakira | 2017-03-23 16:11 | 現地で 全般・他
ケニアの永住権の承認通知が届きました。

永住権にはいくつか種類があり、
私のはケニア人の配偶者という種別。

この正式な取得のための支払金額は5万シリング(5万円少々)で、
早速それをオンライン手続きでクレジットカードで支払いました。

明日、支払い済みの書類を携え、
ナイロビの移民局に出頭する予定です。

正式な取得までまだまだ気が抜けませんが、
とりあえず、大きな喜びと感謝にあふれています。


相原 記

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by kjkirakira | 2017-03-22 23:42 | 現地で 全般・他

ビーズの購入会

毎学期の終盤に、
次の学期の学費を払ってもらうために、
マサイビーズのアクセサリーづくりをしているママさんたちやお祖母ちゃんたちを呼び、
購入会を開いています。

学校の規模拡大とともに、
毎年該当者が増えて、
毎回毎回全員から全額を購入してあげることができず、
3学期分のうち2学期分を購入することにしています。

しかし、今回は、全員が対象です。
こどもの数だけで40人。
保護者にすると30人に及びます。

平均的な小さい女の子なみに、
王女さまの冠にあこがれていた年長組のヒカリは、
「マサイのママさんたちが持って来る作品から、私の冠を選ぶ!」
と意気込んでいました。

で、結局選んだのがこれ。

b0124020_16053140.jpg



















この日、やって来なかった保護者は3人(児童3人)。
うち1人は、4年生メムシさんのお母さん。
何度も何度も私たちに泣きついて来て、
経済状態が悪くてキラキラが続けられそうにもない、と窮状を訴え、
私たちも、この母娘に対しては、
2学期分だけではなく3学期分購入してあげようかと考えていたところだっただけに、
同情するどころではなく、
「何でチャンスを活かそうとしないんだ!」と怒りがこみあげてくるほどでした。

学校が大好きで、いつも笑顔のメムシさん。
頬にはマサイの印章である焼き印が。
家も典型的なマサイの集落。

このまま、学校をやめて、結婚させられてしまうのでしょうか。
仮にそうなったら、こどもの権利を侵害したとして、親は訴えられます。

しかし、もし、学費の安い公立学校に転校するということであれば、
一時的にメムシさんは大好きなキラキラと離れて悲しい思いをすることはあるとしても、
学校を続けることに変わりはないのでOKとなります。

来訪していた日本の友人MさんとNさんとともに、
ビーズの作品を堪能しつつ、
いろいろな問題点について話し合いました。

数年後、キラキラの自立とともに、
このビーズ購入会も回数を減らしていくことになるでしょう。
自立はめでたい半面、
伝統文化が消滅していく数年間を目の当たりにしていくことになるわけで、
少し複雑な気分であります。


相原 記


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by kjkirakira | 2017-03-16 23:02 | 現地で 保育園+小学校

最終面接

ケニアの永住権、
2014年12月30日に申請、
半年後に秘密警察の人からの厳しい面接を受け、
1年後に「来週」と言われ、
1年1か月後に「あとこれとこれ」と追加提出書類を依頼され、
その追加で提出した書類がしっかりと届かずに、
1年半後に再度提出し、
その後は「あと2週間後」「あと3週間後」「来月」などと言われ続け、
そうこうしている間に労働許可証の期限も切れ、
諸事情を考慮して労働許可証の延長もやめて(あきらめて)、
永住権を待っているということで特別なケニア滞在延長の手続きを2回もして、
ずっとずっと永住権の最終面接の呼び出しを待っていたのです。

申請して2年3か月、
ついに呼び出しの電話が鳴りました。
正直、とっても大事なことの割には、
電話はあっけなく、
1週間後の面接の日時と持ち物などを言い渡されただけ。

幸い、建設現場監督も小休止していたために、
黒焦げの日焼けも和らぎつつあり、
日光による火傷でただれていた唇もほぼ治癒しており、
シャドラックくんの喪もほぼ終わって日常生活に戻り、
準備万端。

日帰りでは交通渋滞で遅れてしまう危険性があったので、
前日にナイロビ入りすることに。

長女ノゾミと次女ヒカリはジョイス先生のおうちに預け、
咳をしていたノゾミのために薬を買ってあげて、
(私がいれば薬なんて要らないのですが、一般の人は薬があるだけで安心しますから)
妻ジャシンタとともにナイロビに出発しました。

いやいや、最近のケニアの乾季は暑い暑い。
バスターミナルまで歩くだけで汗と疲労。
たまたま同じバス(マタトゥ)に、
キラキラ3年生のデボラさんのお父さんと、
キラキラ4年生のヤハヤくんのお父さんも乗り込み、
みんな「暑い暑い」などとぼやいていました。

最近、ナマンガ発ナイロビ行きのバスは、
国境の検問を受けてから出発することになったようで、
バスは検問所の駐車場へ入って行きました。
そこで、車に乗ったまま、
検察官が一人一人のパスポートや身分証を確かめていきます。

私の番になり、検察官さんから2つ3つ質問、
そして、「車から降りて事情を説明して」と言われてしまいました。
特別延長でケニアに滞在している私には、
それなりの事情がないといけないのです。
幸い、永住権を待ち続けていて、
今日はその最終面接のためにナイロビに行く、と説明すると、
難なく放免されました。

テロなどで治安悪化のケニアですが、
治安維持の努力もかなりしています。
不法滞在の外国人への取り締まりが、
かなり強化されているのです。

「暑い暑い」と言いながら、
4時間かけてナイロビに到着です。

既に夕方。
数か月ぶりのナイロビとあって、
そのスピード感、人の多さ、喧騒ぶりに、
ちょっと圧倒されます。

1泊2人2000円の、
安宿~中級宿に泊まりますが、
外の喧騒もあって眠りは浅くなります。

翌朝、2017年3月14日(火)、
数時間後に迫った最終面接に向けて、
ゆっくり念入りに準備です。
トイレ事情が良くないケニアでは、
外出時にトイレを使う必要がないように、
飲食に気を付ける必要があり、
身体の中に何もない状態にして出かけるようにします。

出頭時刻は11時と聞いていたのですが、
念のため、早めの9時に到着します。

早速、人の列!
永住権の最終面接を待つ夫婦たちです。
今日の面接は、
ケニア人と結婚している外国人配偶者たちが対象のようです。
白髪の欧米人男性が多いのにびっくりです。
私とジャシンタの結婚生活はせいぜい13年ですが、
皆さん、20年、30年という結婚生活の長い年月を経て、
ケニアの法制度が変わったおかげでようやく永住権の申請ができたのでしょうね。

ケニア人男性と結婚している日本人女性Yさん。
「日本の方ですか?」
「はい、そうです」
から会話が始まり、
いろいろと情報交換。

永住権を取るまでの平均はやはり2年半くらい、とのこと。
ただ、Yさんは何と1年半で最終面接まで来た、と。
タイミングや運などもあるのでしょうが、
女性の方が男性よりも取りやすい、という噂はやはり本当なのでしょう。

カナダ人男性と結婚しているケニア人女性が、
私がジャシンタとしゃべっているのに聞き耳を立てて、
「何であなたはそんなにスワヒリ語が上手なの?」と、
驚きを隠せない感じで話しかけて来ました。

ケニアといっても広く、
ナマンガやモンバサ方面などではスワヒリ語が主流なのですが、
他の地域では部族語が主流だったり、
ナイロビなどでは英語だけで十分生活と仕事ができるので、
スワヒリ語がしゃべれない外国人が意外に多いのです。

そのカナダ人男性とケニア人女性が、
その日に集まった中で見た目ではいちばん若い夫婦。
結婚して3年で永住権を申請し、
2年10か月待ってようやく最終面接に呼ばれた、と。

「僕も数年後にはスワヒリ語をペラペラしゃべれるようになりたい」
と緊張でおどおどしながらも無邪気に話すカナダの男性。
若く、まだまだ人生経験も浅いこの夫婦、
心から応援したくなってしまいました。

2時間以上、立ったまま待たされ、
30分前からは、面接会場前に置かれた椅子に座って待ちました。

面接を終えて出てきた夫婦のケニア人女性の方が、
小さく親指でガッツポーズをしながら私たちに目くばせして帰って行きました。
その表情、本当に嬉しそう。
やはり、永住権を待ちながら気が気ではなかったのでしょう。
私とジャシンタだけが苦しんでいたわけではないようです。

日本人のYさんが面接を終えて出て来て、
すぐに私の耳元で、
「聞いていた通り、自己紹介がメインでした」と。
早速私はカナダ人男性にその情報をささやきました。

不思議なことに、
最終面接の順番が近付くにつれて、
緊張感は徐々に減じ、リラックスし、
感無量の喜びがこみ上げてきました。

私たち同様に苦しんでた同朋たち。
サービスの良い職員たち。

いざ、私たちの番になりました。
前に3人。責任者を真ん中に、副責任者2人が両側。
左に3人。
右に3人。
きっとそれぞれに、
書記だったり、
担当項目をチェックする人だったりするのでしょう。

責任者がまず話を始めます。
やはり、まずは私の自己紹介です。

満を持して、まずは英語で話し始めます。
この貴重な機会をくださったケニア政府と、
ここにいらっしゃる職員の皆さまに感謝します。
そして、神様に感謝します、と。

そして、
私が普段生活の中で使っているのはスワヒリ語であり、
ぜひスワヒリ語でしゃべらせてほしい、と言い、
OKをもらい、
ナイロビの人にとっては恐らく流ちょうな私のスワヒリ語で、
堂々と自己紹介していきました。

日本の埼玉出身、
埼玉は東京の近郊、ベッドタウン、
そこで小・中・高に通い、
大学は新潟という町で通い、
高校時代に将来途上国で支援活動するというビジョンを得て、
高校・大学時代に留学や旅行などで海外に何度も出て、
大学時代にアフリカも訪れて、
アフリカで支援活動をするという計画を具体的に考え始め、
大学は医学部で、
卒業後は大学病院の小児科で勤務していたものの、
それを休止してケニアのナマンガにやって来て、
支援活動を始める準備を進め、
同時に旅行者時代から知り合っていたこのジャシンタと結婚し、
その後、2人の娘に恵まれ、
支援活動、学校運営なども軌道に乗り、
いろいろな状況を考慮して、生活の基盤をケニアにしたいと考え、
この度永住権を申請する機会が得られたことを本当に感謝している。

印象として、職員の皆さんは、
私の流ちょうなスワヒリ語をたいそう喜び、聞きほれ、
話の内容は半ば聞き流していた感じでした。
現地の人並みに、
いや、ある意味それ以上に(ナイロビの住民以上に)、
スワヒリ語を操るということだけでも、
ケニアのコミュニティーに深く入り、
ケニアを愛し、
ケニア人を愛するという姿勢をアピールするに十分だったのでしょう。

そういうわけで、
私による自己紹介にすっかり満足してしまった職員の皆さんからは、
全く質問を受けることもなく、
ただ、妻ジャシンタが、
「何か追加することがあったらどうぞ」
と言われて、
妻の視点から私の自己紹介の補足説明を少ししただけでした。

そして、私たちは6分くらいで放免され、
面接会場を出ました。
9時に来て、放免が12時50分。

最終面接まで来たら、もう落とされることはない。
あとは数日後に承認の連絡があり、支払いをし、
数週間後に正式な取得となる。
こういう楽観的な話を聞いてはいましたが、
最終面接を経て、確信に変わりました。

私たちの後の人たちに喜びの目くばせをし、
階段を下りて、
役所の外に出て、
ナイロビの空気が美味しく感じられました。

疲労困憊しながらも、
滅多に来ないナイロビでいろいろ買い物などをする時間が持てました。

ナイロビの繁華街で、
ナイロビ在住日本人のIさんに遭遇。
やはり、ここでも情報交換。
ケニア滞在の件、
私だけでなく日本人はみんな苦労していますね。

その後、徐々に徐々に、
私は脱水症状に陥ってしまいました。
長時間の外出のために水分摂取を制限し、
さらに、役所内で立ったまま待たされている間も、
じわじわと暑くて汗をかき続けていたこともあったのでしょう。
唇が渇き、指先まで痛くなるほど。

水分をたくさん買って、
帰りのバス(マタトゥ)に乗り込みました。
一時はあくびがひっきりなしに出るくらいまで症状が悪化したのですが、
ひたすら水やジュースを飲み続けたことと、
夕方の風が心地よく窓から入り始めたことで、
徐々に徐々に体調は回復。

ナマンガの家に帰りつき、
水を飲み続け、
尿も汗もしっかりと出始め、
しっかりと眠り、
翌日の昼には日常に復帰することができました。

永住権の件、
十中八九、もう決まりと言って良いとは思うのですが、
まだ決まったわけではありません。
最後のつめの祈り、感謝の祈りをしつつ、
吉報を待ちます。


相原 記


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by kjkirakira | 2017-03-15 18:39 | 現地で 全般・他

シャドラックくんの家で

2年生シャドラックくんの病死の報の後、
キラキラではすぐに募金を始めました。

保護者一人につき100円、
こども一人につき20円。

毎朝、小学校と保育園それぞれで、
先生方が募金を受け付けてくれました。

葬式が済み1週間後の金曜、
いちおう募金を締め切り、
その募金の成果をPTA役員会で確認したうえで、
それをシャドラックくんのご両親に届け、
その際にシャドラックくんの家の庭で集会を開く、
という段取りです。

PTA役員会を短時間で簡単に終わらせ、
教職員約15人、PTA役員と保護者の有志たち約15人、
それから近所に住んでいる(キラキラの)こどもたち約15人、
教職員や保護者の(キラキラの)こどもたち約5人が、
シャドラックくんの家の庭に集結しました。

すぐに集会です。
司会者はドロシー先生。
アン先生のお祈り、
教職員代表としてアレックス先生のあいさつ、
保護者代表としてサムエル・クレイくんのお母さんのあいさつ、
私が聖書の御言葉から簡単に説教(奨励)、
2年生の男学級委員レビスくんと女学級委員のノゾミさんから募金をシャドラックくんのお父さんに手渡し、
ジャシンタ先生からあいさつ、
最後に、シャドラックくんのお父さんからのあいさつ。

感動的な集会となり、
参加者の多くが心に感じるものがあったようで、
既に涙が乾いていたシャドラックくんのご両親の目にも、
再度涙が浮かんでいました。

その後、シャドラックくんの家族からみんなにお茶が振舞われ、
大人たちだけでなく、
20人くらいのこどもたちにもまんべんなくお茶が配られました。

しかも、シャドラックくんのお父さん自らが、
キラキラのこどもたちのためにコップを配ってくれました。

お葬式の前までは、
いろいろと忙しく、
多くの弔問客があり、
ご両親もある意味気が紛れてしゃんとしていられる。

しかし、お葬式の後、
弔問の客足が途絶え、
疲れや悲しみが一気に出るであろう時こそ、
励まし、寄り添うことが肝心だと思い、
キラキラのPTA会長でもあり、
もはや親友でもあるシャドラックくんのお父さんのところに、
私は毎朝毎朝通いました。

キリスト教の宣教師であるお父さんは、
この人生の一大事を乗り越えて、
きっと宣教師としてのさらなる高みに達してくれるに違いない、
そう確信しています。
悲しみを経験し、打ち砕かれた心をさらけ出す人のところに、
神の霊は強く宿りますから。

この日の集会も、
説教は私が行いましたが、
最後は彼の祈りで締めくくりました。
この集会を機に、
普段の宣教の働きに復帰していってくれるものと信じています。

そして、シャドラックくんの弟さんが、
来年にはキラキラ保育園の入園許可年齢に達するので、
今年の10月の入園手続きで無事に入園を果たし、
これからも長くキラキラとともに歩んでいって欲しいものです。


相原 記

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by kjkirakira | 2017-03-10 23:44 | 現地で 小学校

シャドラックくんを葬る

2017年3月4日(土)、
病気で急逝した2年生のシャドラックくんのお葬式の日。

まず、遺体が安置されているタンザニア側に110㎞入ったアルーシャにある病院に、
シャドラックくんのご家族と近しい人たちが出かけて行きました。

キラキラのスクールバスは、
国境を越えてタンザニアに入るというリスクや出費や手続きの難解さを考慮して、
ケニア側で待機です。

お葬式の儀式が営まれるシャドラックくんの家は、
ちょうどナマンガの国境沿いで、
よく日本からの訪問者を連れて行くあのコンクリート製の国境の目印のすぐそば。

早めに到着したキラキラの男先生たちと私は国境目印の辺りで、
キラキラの女先生たちは儀式が営まれる会場の椅子に腰かけて、
アルーシャからの遺体の到着を待ちました。

遺体の到着後、すぐに儀式が開始されました。

まず、タンザニア側の慣習に乗っ取り、
棺桶の蓋が開けられ、
シャドラックくんの眠り顔に、
みんなでさよならを言います。

ここで、案の定、3人くらいの女性が、
過換気の発作でぶっ倒れました。

続いて、ケニア側の慣習に乗っ取り、
棺桶の前で、
いろいろな集合写真を撮ります。
家族、父方の親族、母方の親族、ご近所さん、
教会の人たち、キラキラの人たち(教職員・こどもたち・保護者たち)、など。

家族・親族・教会などの代表者たちのあいさつ。
今回は学校(キラキラ)の代表者のあいさつは省略。

そして、キリスト教の簡単な礼拝です。
説教と、祈りと。

その後、この日のために大量につくられた食事が振舞われ、
みんな思い思いの場所で食事をとります。

一段落して、埋葬される場所への出発となりました。
場所はお父さんの実家。
ナマンガを見下ろすオロック山の反対側!
その場所に行ったことがある人はほとんどいません。
不謹慎ですが、少々わくわくします。

キラキラのスクールバスは、
教職員および保護者の中の希望者が、
予め200シリング払って席を予約していたので、
満員のはずだったのですが、
急きょ、母方の親族の方々が乗る車がないということになり、
キラキラのスクールバスが特別に人数制限を超えて出発することになりました。

見知らぬ土地への移動、
どんな山や谷や障害が待ち構えているかわからない。
ということで、
いつも利用するマーティンくんのお父さんのオートバイを、
念のために伴走させることにしました。

バスのエンジンを入れる前に、
ドロシー先生が代表して旅の安全を祈ります。

最初の15㎞は舗装道路のために安全・安心です。

15㎞のところにあるマイリティサという町で、
左に分岐し、未舗装道路に入ります。

b0124020_20102738.jpg
















初めのうちは、順調に、スピードも出てすいすい進みます。
オロック山の北端をぐるっと回り、山の反対側に出ます。

地球の衛星である月は、
その公転周期と自転周期が一致しているために、
我々地球人は月の反対側を見ることができません。

それと同様に、オロック山の反対側を見ることはないだろうと思っていたのですが、
シャドラックくんの埋葬のために、初めて見ることができました。

b0124020_20102744.jpg
















道路の状態は概ね良好だったものの、
2つの川を越えるのが大変でした。

1つ目の川は水があったものの、
幸い水は膝くらいの高さであり、
車に乗ったまま渡り切ることができました。
(源平合戦=富士川の戦いを思い出しました)

b0124020_20102774.jpg
















2つ目の川は水がなかったものの、
大きな大地の溝になっていました。
幸い、バスに乗ったまま、
下りも登りもうまく進み、
渡り切ることができました。

川以外の大きな障害は、
とげとげの木の枝がバスの窓や車体に容赦なく襲いかかってきたことでした。
窓ガラスが割れることはなかったものの、
車体の塗装にだいぶ傷が増えてしまいました。

分岐点から2時間かけてようやく到着です。
車の距離表示を見ると、それでも分岐点から20㎞のみ。
体力のある人なら、ジョギングした方が楽です。

シャドラックくんのお父さんが生まれ育ったマサイの集落では、
既に埋葬の準備がなされていました。

牧師たちの先導により、
棺桶が穴におさめられ、
そこに土がかぶせられ、
そこにシャドラックの名前が書かれた十字架が立てられ、
万事スムーズに進みました。

その墓の前で、
花を供える儀式となりました。
シャドラックくんの両親が呼ばれ、
お父さんとお母さんが花輪を手にして墓の上に置きます。

続いて父方の祖父母、母方の祖父母、
兄弟姉妹、おじさんおばさん、従兄弟たち、といった具合。

何と、シャドラックくんの学校の代表者、ということで、
私とジャシンタ先生が呼ばれました。
神妙に、花輪を取り、2人一緒に十字架に花輪をかけました。

次いで、何と、シャドラックくんの親友が呼ばれました。
しかも、「あの韓国人の女の子!」という名指しで。
つまり、ノゾミのことです。
山奥のマサイの集落にキリスト教の宣教のために積極的に入る韓国人は、
日本人よりも有名なのです。

そこで、近くにいた私は、
「2人でも良いか?」と尋ね、
シャドラックくんのクラスメイトで、
シャドラックくんの友達で、
シャドラックくんと勉強その他の学校での活動で切磋琢磨していた、
女級長であるノゾミ同様に男級長であるレビスくんを呼びました。

ノゾミさんとレビスくんは、
2人で花輪を手に取り、
私とジャシンタ先生同様に、
十字架にかけて、
その場を離れていきました。

ノゾミは、さすがに、涙ぐんでいたようです。

私にとっても、
その日の一連の大人中心の儀式の中で、
このノゾミとレビスくんの件が、
唯一心の琴線に触れました。

一連の埋葬の儀式が終わり、
動物たちがやって来て墓を荒らさないようにと、
最後に、墓にとげとげの枝が施され、
会衆一同、帰りの車に乗り込みました。

この、シャドラックくんの墓を、
私が生きているうちに再び見ることはあるだろうか。

名残惜しく、私は会衆の最後に残り、
墓と、風景とを、凝視し、
脳裏に刻んでから立ち去りました。

親に同行してついて来たキラキラのこどもたちは、
ノゾミとヒカリとレビスくん以外にも10人くらいいました。

帰りのバスの中では、
ヒカリとその年長組のクラスメイトのデニスくんが、
歌を歌ったり冗談を言ったりして、
場を和ませてくれました。

20㎞の未舗装道路を終え、
舗装道路に出た途端に、
自動車が牛を4頭はねた事故現場に遭遇しました。

自動車のボンネットは完全につぶれ、
白煙を出し、
牛のうち3頭は恐らく即死し、
1頭は息絶え絶えに首を動かしていました。

私たち生けるものの生死は、
次の瞬間どうなるかわかりません。

わかるのは、
「土から出た人間は、やがて土に帰る」
(旧約聖書・創世記3章)
ということだけです。

これを書きながら、
目の奥に水が湧き出て来ます。

学校が大きくなればなるほど、
こういう悲しい出来事に遭遇する確率も増えていくことでしょう。

感情に素直に、愛情を貫きつつも、
感情に支配されすぎずに、規律とやり繰りとを万全とこなし、
あらゆる不測の事態に対応できるよう、
…、
神様、助けてください。

ナマンガに帰着し、
シャドラックくんのお父さんと強くハグし、
21時、その日は終了しました。


相原 記


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by kjkirakira | 2017-03-04 23:09 | 現地で 小学校

シャドラックくんの急逝

シャドラック・レマイヤンくん、
2009年9月21日生、
2017年2月28日没、
享年7歳5か月。


2014年11月、
キラキラ保育園の入園手続きを、
これまでの1月初めではなくて、
前年度の11月に初めて実施した際に、
最後の一人として手続きされました。


シャドラックくんのお父さんはキリスト教の伝道師。
お父さんはケニア人ですが、タンザニア人の女性と結婚し、
長年タンザニアのアルーシャに暮らし、
長男シャドラックくんはそこの幼稚園で学んでいました。


しかし、こどもの教育事情を考慮し、
ケニアの教育を求めて、
家族みんなで国境ナマンガに引っ越して来て、
まだナマンガで住む家も決まっていないときに、
キラキラ保育園の入園手続きにやって来たのです。


シャドラックくんは、
2015年の1年間だけキラキラ保育園に在籍し、
翌2016年1月にはキラキラ小学校の1年生となりました。


成績は優秀で、クラスで5番以内。
礼儀も正しく、これもクラスで5番以内に入るくらい。

クラスでの席順はだいたい成績順なので、
ノゾミさん(女学級委員)、レビスくん(男学級委員)とはいつも席が近く、
お友達としていつも切磋琢磨していました。


2016年1月のPTA総会にて、
シャドラックくんのお父さんはPTA会長に選出され、
以降、キラキラを保護者としての立場から先導し、支えて来てくれました。


昨年夏に、私の両親がケニアを訪れた際にも、
保護者代表として直接あいさつしてくれました。


2017年にシャドラックくんは2年生になり、
いつものように勉強に励み、
礼儀正しく、学校での仕事を積極的に手伝いながら、
学校生活を謳歌していました。


ときどき体調を崩すものの、
ごく平均的なこどもの健康状態であり、
とくに持病もなく、元気にしていました。


2月26日(日)、
キリスト教の伝道師であるお父さんと一緒に、
ナマンガから90㎞離れたカジアドと言う町の教会に出かけ、
そこからの帰り道で、嘔吐が始まりました。


翌日、ナマンガの病院で検査を受け、
アメーバ赤痢と診断され、
治療を受けていました。


しかし、治るどころか増悪し、
飲食物が喉を通らなくなり、
嘔吐し続け、
2月28日(火)の夕方、水分補給の点滴を受けた状態で自動車に乗り込み、
タンザニア側に110㎞離れた町アルーシャにある大病院へ向かいました。


しかし、19時頃、
大病院に着く手前、自動車の中で、
帰らぬ人となってしまいました。


シャドラックくんは、
2017年3月以降の地球を経験することがありませんでした。


遺体はその大病院の遺体安置所に預けられ、
両親と関係者はナマンガの家に帰宅し、
早速葬式に向けての話し合いが始まりました。


キラキラ側は、
翌3月1日の朝に連絡を受け、
何人かの先生は声に出して泣き、
涙で目が真っ赤になったままその日の夕方を迎えるほどでした。


私とジャシンタ先生は、
連絡を受けた朝、
早速シャドラックくんのお父さんとお母さんを訪ねました。


ジャシンタ先生は、
屋内にいたお母さんと一緒にしばらく泣いていたようです。


私は、屋外にいたお父さんと一緒に腰かけ、
言葉もなく、しばらく寄り添っていました。


そして、葬儀準備の動きが始まり、
私も早速写真のプリントで協力しました。
誰よりも多くシャドラックくんの写真を撮ってきたのは、
学校のカメラマンである私でしたから。


キラキラでは、数日後に、
ビリカ・キャンパスにて運動会・植樹会を予定していたのですが、
それはすぐに延期としました。


そして、1年前に年少組のサムエルくんが不慮の事故で亡くなった際の額に応じ、
各児童20シリング、各保護者100シリングの募金を始めました。


また、葬儀当日にスクールバスで葬儀に同行する希望者のために、
各自200シリングも集め始めました。


毎晩、シャドラックくんの家の庭では、
葬儀準備委員会の会合が開かれ、
毎晩毎晩私とジャシンタ先生も出席しました。


PTA役員会も召集し、
既に私とジャシンタ先生が始動していた諸々のことの確認と、
具体的な準備や、学校としての姿勢について、話し合いました。


葬儀の2日前の夕方、
キラキラの教職員全員と、
PTA役員および保護者の有志と、
キラキラの児童・園児の有志とで、
シャドラックくんの家を訪問し、
屋外で、お父さんも交えて、
励ましの集会をもちました。


その後、屋内にいたお母さんのところに、
励ますために入って行った教職員・保護者の皆さんは、
みんな一様に泣き顔で出てきました。


小学校調理のジュリアナ先生は椅子に座り込んで涙を流し続け、
保育園調理のジョイス先生は歩き回りながら涙を流し続け、
バスの運転手のジュリアス先生すらしばらく泣き顔で、
そういった姿を見たキラキラのこどもたちの何人かも、
涙をこぼしていたようです。


シャドラックくんは、
学校での食器洗いのお手伝いが大好きだったようです。


まだ若くて未婚でこどものいない男の先生たちと違い、
こどもも孫もいるジュリアス先生の男泣き、納得です。


こういう時は、
悲しみのために無気力・無機能となる人と、
悲しみを覆い隠すために気分が高まって仕事こなす人とに分かれるようです。
キラキラでも、前者となった先生方がいた一方で、
後者として、私以外にも、
保育園のスワレ先生や小学校のナオミ先生などがいて、
募金などの収集・計算・やり繰りに大活躍してくれました。


そして、金曜が終わり、
翌3月4日(土)の葬儀で会いましょうということで、
教職員たち、児童や園児たちとお別れました。


その金曜の晩、葬儀を翌日に控えた最後の葬儀準備委員会の会合は、
久々に降った雨の中で、
みんな傘をさしたり雨に濡れながらの話し合いになりました。


干ばつで苦しんでいたケニアで、
この雨は大地にとっての祝福。


シャドラックくんのために流れた涙も、
当座は悲しみの雨なのでしょうが、
ゆくゆくは祝福の雨になるに違いありません。


相原功志☆キラキラ☆ナマンガ☆ケニア


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by kjkirakira | 2017-03-03 23:53 | 現地で 小学校