アフリカでのこども支援 「キラキラ・プロジェクト」 + それを日本で後援  「キラキラを支える会」


by kjkirakira
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<   2010年 01月 ( 4 )   > この月の画像一覧

少年アントンの夢

少年アントニ、
通称「アントン」または「アントニオ」、
2000年8月生まれ。

アントンの母Wは、
全く学校に通ったこともなければ、
ほとんど家族や社会に貢献する仕事もしたことがない。

Wは幼児期に母親から虐待され、
育児放棄され、
ほぼ完全に見捨てられ、
祖母に育てられた。
母親から受けた心の傷と、
祖母に甘やかされたためか、
礼儀に欠けたとんでもない娘になってしまった。

Wは13歳で妊娠してこどもを産んだ。
その子がまだ1歳にもならないとき、
腹を立ててその子を雨の中に放っておいた。
家族や親戚が見ている前で。
子供を救おうとする者がいると、
「私の子に手出ししないでよ!」
と、この世のものとは思えない剣幕で怒鳴りつけ、
結局誰も手出しができなかった。
その子は両手を曾祖母の方へ差し出し、
息絶えた。
この一件は、家族や親戚の中に、
心の傷として刻まれた。

Wは立て続けに2人の子を産んだ。
アントンの姉と、アントンだ。
Wは、自分の母親がそうであったように、
自分のこどもへの愛情に欠けていた。
曾祖母がアントンと姉を育てた。

2005年1月、
曾祖母がアントンをキラキラ保育園に連れて来た。
アントンはキラキラ年少組で、
遊びも勉強も精いっぱい取り組んだ。

しかし、曾祖母の生活苦のため、
間もなく遠い地へ引っ越して行った。
しばらくしてナマンガに戻り、
姉とともにキラキラ保育園に復帰した。

それでもなお曾祖母は、
アントンと姉以外にも重荷を抱えており、
世話のかからない全寮制の小学校付属幼稚園に、
アントンと姉は転校することになった。
その学校は交通機関のない田舎にある。
転校の手続きを終えた曾祖母は、
ナマンガに戻る20kmの道のりを、
ヒッチハイクができないままに、
徒歩で、帰って来た。

それから間もなく曾祖母は病気で寝込んだ。
原因がなかなかわからない。
実は後天性免疫不全症候群(エイズ)だったのだが、
複数の医療機関もそのことを知りながら、
本人や家族には長いこと告げられなかった。

曾祖母は息絶えた。
享年60歳。
葬式に、全寮制の学校にいるアントンと姉は呼ばれなかった。
家族会議で、今後のアントンと姉の面倒は、
実の母Wが責任もってみることになった。

貧しいながらも努力して、
アントンたちの学費を払っていた曾祖母。
それに引き換え母Wは、
貧しいにもかかわらず努力して稼ごうともせず、
アントンたちは何度も学費滞納で停学処分に遭い、
ナマンガの家に戻って来るようになった。
その度に、まだ幼稚園部門だったアントンは、
自らキラキラを訪れ、
当面の間面倒見てくれと訴え、
私たちもそんな彼に居場所を提供してきた。

アントンは、かつてキラキラ保育園に一緒に入園した、
同年代のこどもたちから遅れること2年、
2009年1月、ようやくその学校の1年生に進学した。
しかし、1学期末、再度学費滞納で脱落した。

2学期には学校に戻るだろうと楽観しながら眺めていたが、
なかなかその気配がない。
姉とともに、ずっと家にいる。
母Wとともに、おばさん(Wの妹)の家に無理やり居候しつつ、
Wは働かず、アントンも姉も近所の大人たちの使い走りとなり、
それでいて近所中の注目と同情を集めつつ、
虚しい時が流れた。

11歳になる姉の方は、
このままでは母Wと同じ道をたどってしまうという、
親戚や取り巻きの危機感から、
学費の支援が何とか集まって、
学校に復帰することができた。

アントンは、一人家に残った。
「キラキラ保育園に通ってもいい?」
と私に恐る恐る尋ねてきたが、
アントンのために指一本動かそうともしない母W、
それでいて、
アントンが少しでも悪さをすると、
ものすごい剣幕で殺してしまいそうな勢いで殴りつける母W、
それらを目の当たりにすると、
なかなかOKとは言えなかった。
しかし、土曜日のキラキラ補習塾にだけは、
快く受け入れていた。

2009年末、
このままではアントンの将来どころか、
明日の命さえ危ない、
と感じるようになった。
母Wに殴り殺されるか、
希望を失くした母Wによって毒を飲まされ、
一家心中によって息絶えるか、
家出して路上で野たれ死ぬか、…。

2009年12月、
私がキラキラで大工仕事をしていた3週間、
毎日補習塾を開いていた。
そこへ、アントンは毎日欠かさずやって来た。
アントンは、その3週間で掛け算九九をマスターした。
聖書の66書のタイトルも丸暗記した。
大工仕事も助っ人として手伝ってくれた。
早朝から夕方まで私とともにいて、
大変な大工仕事をやり遂げられるように心から激励してくれた。

補習塾ではときどきこどもたちに賞をあげることにしている。
12月の賞は文句なしにアントンに決まりだった。
全寮制の学校への復帰が難しい今となっては、
何とかナマンガにある公立小学校に編入させてあげたい。
その支度金として必要な1500シリング(2000円)相当を支援することにした。

しかし、ことはスムーズには運ばなかった。
2010年度開始の1月4日、母Wは家を開けたまま姿を見せない。
しかたなく、アントンの亡き曾祖母の妹さんにお願いし、
お金を託し、ナマンガ小学校に連れて行ってもらった。
小学校の職員室に入り、編入決定か、というそのとき、
母Wからの電話が鳴った。
「私の息子に何てことすんの!?放っておいてよ!」
夢は立ち往生…。

アントンを毎日近所で見かけるのが辛かった。
しかし、夢はあきらめない。
近所、親戚みんなでひたすら祈った。
母Wのあまりにもみだらでずさんな生活と育児放棄ぶりに、
近所中も爆発寸前となっていた。
こどもを小学校に入れない親は法律で罰せられる。
「家族会議したうえでWを警察に突き出せ」
と、ついに私も声に出した。
しかし、ひとまず我慢して待った。
1日、2日、1週間、2週間、…。

そして、ようやく山が動いた。
周囲からのプレッシャーと、罪の意識を感じたのか、
W自らが一人でナマンガ小学校の職員室を訪れ、
息子アントンの編入は可能かどうか尋ねに行ったのだ!
新年度開始から遅れたために、芳しい返事は得られなかった。
Wは再び動きを止めてしまった。

2週目の土曜、補習塾のみんなと、
アブラハムが無事にビシル小学校に転校したことを喜びあったとき、
「来週はアントンのために拍手喝さいしようね」
と話し合った。

3週目、19日の火曜日、
親戚が、ナマンガ小学校のPTA会長に交渉しに行った。
Wが指一本動かさない中、
親戚たちは忙しい日常業務を中断してアントンのために働きかけた。
厳しい事情を理解したPTA会長自らが動き、
校長にも納得してもらうことに成功した。
母Wもようやくアントンを伴って小学校を訪れた。

20日の水曜日、ついにアントンはナマンガ小学校に一人で初登校した。
2年生の教室に入り、早速授業を受けた。
夕方、私も大喜びでアントンを抱きしめ、宙に持ち上げ、感極まった。
事情を知って一緒に哀しんでいた近所のこどもたちも、
大喜びでアントンとともに跳ねて跳び回った。

あのオバマ・フィーバーがあった2008末、
アントンは、
「僕は将来オバマ以上の大物になるよ」
と語っていた。
そうだ、アントン、夢を捨てるな!

才能に恵めれていたがチャンスがなかなか得られなかったアントン、
彼が大人へ向かう成長を、
家庭環境に翻弄されて心も体も腐敗していた母W、
彼女の母親としての成長を、
この目で確認する2010でありたい。

もっと早くキラキラが動いて、
アントンを支援するべきだったでしょうか?
それとも、母Wに介入せずに、
アントンを全く支援せずに傍観の姿勢を通すべきだったでしょうか?
いや、キラキラも、アントンも、母Wも、
それぞれの器量の中で、
いや、器量を超えてベストを尽くした結果がこれだ、
そう信じています。

キラキラは今後も、
努力する親、努力する子を大いに支援しながらも、
怠惰な親ともかけひきや綱引きをしながら、
自助努力を促す本当の意味での支援を続けていきたい。

現地コーディネーター 相原功志 記


2005年、キラキラ年少組在籍当時(5歳)のアントン。

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2010年、もうすぐ10歳のアントン。
マリア(9歳)とは近所の幼なじみ。
同じナマンガ小学校に通うことになりました。

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近所の少年と大喜びするアントン(上)。

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by kjkirakira | 2010-01-22 20:08 | 現地で 特別児童

少年アブラハムに夢託す

アブラハムは1997年11月7日生まれ。
今月No.300を超えたキラキラ・プロジェクトの被支援児童のうち、
登録番号No.3として、キラキラ創立時からともにいる重要なメンバーの一人です。

アブラハムのお父さんの名前はエノック。
2006年から2007年にかけて開いた日本語教室に来ていたので、「エノックさん」と呼んでいます。
エノックさんの最初の妻は、長男を産んで間もなく死去。
そして2番目となる妻フロリアーナと再婚。
長女、次男(アブラハム)、三男(ダニエル)に恵まれました。
エノックさんは土木・建築・運搬などの肉体労働、
妻フロリアーナは主婦業の傍ら洗濯・掃除などのバイトに励みつつ、
貧しくも温かい家庭を築き、計4人のこどもたちを育ててきました。

2004年7月のキラキラ創立時、キラキラ保育園の入園受付初日、
お母さんフロリアーナに伴われやって来たアブラハムはまだ7歳足らず。
入園するや否や、見る見るうちに才能を開花。
元気にたくましく、賢く社交的に、キラキラ創立時の15人の児童をリードしていきました。

2005年、建築したばかりのキラキラ新校舎に移転し、
一気に児童数50人超と膨れ上がったキラキラ保育園の年長組リーダーとなり、
入園してきた弟のダニエル一緒に元気にやっていました。

「あぁ、キラキラに小学校があったらいいのに…」
田舎町ナマンガの全体的な教育レベルの低さを嘆きつつ、
コミュニティーの救世主として立ち上がったばかりのキラキラに夢を託していた母フロリアーナ。

間もなく彼女は病気にかかります。
病気の原因が最後まで明らかにならず、病院をたらい回しとなり、
時には場当たり的にマラリアの強い薬を注射されたりなどと、散々な目にあいました。
田舎町ナマンガの医療施設ではとうていらちが明かず、
遠いアルーシャの病院に入院となりました。
アブラハムとダニエルも、ときどき保育園を休んで母のお見舞いに出かけて行きました。
家族の支えもむなしく、母フロリアーナは病院のベッド上で息絶えました。
遠いエノックさんの実家で行われた葬儀では、
最初の妻が葬られた墓の隣に、2番目の妻であったフロリアーナも葬られ、
関係者の涙が絶えなかったそうです。
(これを書きつつ、私の両眼も涙に覆われています)

アブラハムは、遠いモシにある亡き母の実家に、
半ば奪われるような形で引き取られていきました。
エノックさんが、亡きフロリアーナのための結納金をまだ全納していなかったことが、
フロリアーナの遺族に、アブラハムを人質に取るという行為に駆り立てたようです。
アブラハムはそこで小学校に入り、世の中の悲哀を感じつつも平凡に暮らしていたようです。

弟のダニエルの方も、父方の実家に引き取られて行きました。
突然父子家庭となった大黒柱のエノックさんは、妻の精神的・物質的な支えを失くし、
ある程度大きくなって家事を自立して行える長男と長女だけとのみ生活するので精いっぱいで、
ダニエルの面倒まで見切れなかったようです。
しかし、状況が少し落ち着いた2006年初め、
ダニエルは父のもとに帰って来てキラキラに復帰しました。
エノックさんも徐々に立ち直り、2006年後半、
私が開いた日本語教室に熱心に通ってきてくれました。

そして2006年終盤、エノックさんは再婚を決め、入籍をしました。
3番目の妻となる女性は、以前から私たちも知っていたナマンガの人で、
亡きフロリアーナの友人でもありました。
彼女の性格をある程度知っていた私たちは、
内心先行きに不安を抱えつつ、エノックさんを祝福したものです。

2007年、日本訪問からケニアに戻った私とジャシンタを、
アブラハムがキラキラで待ち構えていました。
エノックさんが亡きフロリアーナの結納金をほぼ全納したのと、再婚したということで、
フロリアーナの実家もエノックさんから手を引こうと決めたようです。

そういうわけで、ナマンガに戻ってきたアブラハム。
ナマンガの小学校への転入が金銭的および小学校の事情から難しかったので、
当面の間キラキラで特待生として世話することにしました。
翌2008年初めより試み的に開設したキラキラ小学校1年生部門に、
特別に3年生として在籍しつつ、
キラキラ全体のリーダーシップを取り頑張っていました。

しかし、不安は適中します。
新しい母は、亡きフロリアーナと違ってぜいたく好きで、
自分の食べる物と着る物と家具には出費は惜しまないものの、
4人のこどもに対する愛情や気遣いはほとんどありませんでした。
そして、水汲みや買い物といった不便で大変な家事には指一本動かさずに、
こどもたちをこき使っていました。
兄や姉ほど成熟しておらず、
それでいて世の中の悲哀をある程度知っているアブラハムにとっては、
耐えがたい家庭環境でした。
半ば希望を失い、家出を繰り返したり、路上を放浪したり、
ゴミ捨て場から食料を得たりする日々が続きました。
「お母さん(故フロリアーナ)ではなく、お父さん(エノックさん)が死ねばよかったのに…」
と、キラキラ調理担当のジョイスさんにもらしていたようです。

もしも、父エノックさんと亡き母フロリアーナから育まれたキリスト教という土台がなかったら、
あっという間に非行少年化していたことでしょう。
キリストが辛うじて彼の心を支えていたといえます。

父エノックさんも、
日々の労働で家族を養うのでいっぱいいっぱい、
内助の功でそんな自分を支えている妻を大切にしなければならず、
かつこどもたちのことが気がかり、
そんな新たなストレスを背負い込むことになりました。
再婚したことを後悔しているかもしれません…。

そんな状況下、
せめて才能豊かなアブラハムには落ち着いて勉強させてあげたいという思いから、
何とか全寮制の小学校に転入させてあげられないものかと考え始めました。

2008年3月、キラキラを訪れた日本のキラキラ支援者Mさんも、
そんな陰を抱えつつ頑張っているアブラハムに心打たれたようです。

2008年10月、キラキラ小学校1年生部門を閉鎖し、
その児童たちを地元の小学校へ転入させる際、
特待生だったアブラハムは、
自分一人だけがこのまま将来のわからないキラキラ保育園に残り続けるのは辛い、
と嘆きました。
そこで、アブラハムもナマンガのAIC小学校に転入させることに。
幸いにも、3年生に直接転入することに成功しました。
同時に、弟ダニエルも同小学校の1年生に転入しました。

その後、毎週土曜日に定期的に開くことにしたキラキラ補習塾に、
熱心に通ってきていました。
しかし、毎日夕方や土日に、
あてのない放牧少年たちやストリートチルドレンたちと一緒に、
路上を歩き回ったり、ゴミ捨て場をあさったり、
金持ちの家でゴミ捨てなどを手伝いながら小銭や食べ物を恵んでもらったりしていました。
そんな姿を見聞きするたび、心を痛めていました。

何とか全寮制の学校へ!
その支援に本当に値する少年かどうか見極めようと、
アブラハム本人、父エノックさん、支援を申し出てくださったMさんと相談のうえ、
小学校4年生の1年間様子を見たうえで、
5年生になるときに全寮制の小学校へ転入させる、
という計画を立てました。

辛い状況にありながら、
否、辛い状況にいたからこそ、
自立心が養われ、
将来への夢が見えてきたということで努力にも磨きがかかったようです。
試験の成績も、1学期学年18位、2学期4位、3学期2位となりました。
夕方の放浪は続いていたものの、学校は休まず通っていたようです。
家事も立派に自立して、
洗濯・掃除・炊事、
さらには水汲み(20リットルのバケツを頭にかついで1kmの上り坂を歩く!)など、
完全に大人並みにできるようになりました。

2009年11月、転校の第一希望だった韓国系キリスト教ミッションスクールから、
転校生の受け入れを来年度から中止することにしたとの知らせを受けました。
あてが外れて夢は立ち往生。
しかし、直ちに方向転換。
公立ビシル小学校への転校を目指すことにして、準備を始めました。

2010年1月7日、手助けを買って出てくれた近所のおばさんに伴われ、
アブラハムはビシル小学校に編入面談に行ってきました。
ビシルは幹線道路沿いでナマンガの北60kmほど、
ナマンガから車で50分かかります。
アブラハムにとっては初めての、
国境ナマンガを離れてケニアの内部へ入る日帰り旅行となりました。
校長先生との面談の席で、
これまで通っていたAICナマンガ小学校での通知票(学年2位)を見せ、
ビシル小学校の4年生3学期末試験を受け上出来、
優秀さ、礼儀正しさとともに、ビシル小学校の先生方にえらく気に入られたようです。
こうして、ビシル小学校5年生への編入が決定いたしました。

すぐさま、本人、父エノックさんと段取りを話し合いました。
転校・入寮にあたって、諸々の必要経費・必需品があります。
何と何をキラキラ・プロジェクトから支援するか、
何と何を私が個人的に支援するか、
何と何をMさんの支援およびお父さんの貯金で賄うか、
確認しあいました。

キラキラ・プロジェクトが支援するのは、
新1年生たちに例年支援している物です。
制服(シャツとハーフパンツ)2着、セーター、靴下、
鉛筆・ボールペン・万年筆・ノートブック・消しゴム、
机(机そのものの代わりに、その代金を学校に支払います)が相当します。

私が個人的に支援するのは、
聖書および讃美歌集。
ビシル小学校は公立なので、イスラムの子もいるとは思うのですが、
恐らく創設時に大きな教会の傘下だったために、
今なおキリスト教色が強いのではないかと想像されます。

Mさんからの支援およびお父さんの貯金で賄うのは、
各種学費と寮生活の必需品などです。
支払は、入学金、PTA会費、寮生としての学費です。
必需品としては、諸々の衣類、運搬具、寝具、消耗品となります。

アブラハムも父エノックさんも大喜び。
「あぁ、何て言っていいかわからない」
と、アブラハムも感謝・感激の心を言い表す言葉さえなかったほどです。
謙虚な姿勢を保つこと、
希望を失わずに夢を見続けることを、
ゆっくりと数日かけて諭しました。

首尾良く準備を終え、1月14日、
アブラハムはビシルへ旅立って行きました。
早速寮に案内され、
最初の友だちもでき、
大喜びしていたようです。

日本にいて満ち足りた生活をしていると、
「そんなの父親の自業自得だ」
「子育てに苦労するとわかっていながらこどもをたくさんもうけるのが悪い」
「再婚が時期尚早だった」
「ママ母だろうが何だろうが両親そろっているだけましだ」
といった感想を抱かれるかもしれません。
現に、現地にいる私でさえ、
父が再婚してアブラハムが苦労し始めたころはそう思っていました。

しかし、アブラハムと父エノックさんを数年間見続けてきたこの私自身が証します。
アブラハムこそ、支援に値する器であり、
私たちこそ、そんなアブラハムを支援する義務がある、と。

アブラハムが今後5・6・7・8年生の4年間をビシル小学校で過ごすのに、
年間最低15000円程度かかります。
その後、セコンダリー校(日本の高校に相当)に4年間在籍するために、
年間最低40000円程度かかります。
Mさんの支援だけで小学校8年生までは足りますが、
その後のセコンダリー校進学のためには更なる支援が必要となります。

アブラハムに心引かれ、
彼の支援に興味をもたれた方、
ぜひ私にご一報ください。
aiharakoji@yahoo.co.jp(相原功志)

または、以下の口座に寄付をご入金ください。
郵便振替口座 00220-3-39508 『キラキラを支える会』
振込用紙の備考欄に内訳をご明記ください。
☆年会費3000円…年3回発行の会報「キラキラだより」をお届けいたします。
☆自由寄付…キラキラ・プロジェクト全体の会計に振り分けられます。
☆アブラハム支援…アブラハム支援のために使われます。
(注)他行からお振込みの場合、以下の4項目を指定してください。
*店名…〇二九店 (ゼロ二キユウ店)
*預金種目…当座
*口座番号…0039508
*受取人名…キラキラヲササエルカイ(キラキラを支える会)

そして、アブラハムの亡き母フロリアーナの夢、
「キラキラに小学校があればいいのに…」
これもあきらめたわけではありません。
今や、キラキラ小学校の開設は、ナマンガの多くの人たちが口にする夢となっています。
政府関係者の心を動かす日もそう遠くないと信じています。

キラキラが大きく動き始めた2010、
皆さんも、キラキラに、アブラハムに、大きな夢を託してください。

現地コーディネーター 相原功志 記


2004年9月、年少組・7歳のアブラハム

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2010年1月、ビシルへ出発直前、5年生・12歳のアブラハム

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これから大きく膨らもうとしている“NOZOMI”を抱くアブラハム(緑のシャツ)

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by kjkirakira | 2010-01-20 22:37 | 現地で 特別児童

キラキラ補習塾2010開幕

キラキラ補習塾も2010年度を迎えました。

毎週土曜日、
主にキラキラ保育園を卒園して地元の小学校に通うこどもたちを対象に、
義務出席ではなく自由参加として、こども本人または親の熱心や必要に依存しつつ、
学習・道徳教育・昼食・仕事・レクレーションを通し、
週日各々の小学校生活で疲れた体と頭をリラックスさせ、
週末、親に家事を押し付けられたり、放任のあまり非行化したりするのを予防し、
小学校を退学せずに続けられるよう激励し、
必要とあらば小学校通学に必要な資金や必需品を援助し、
それに何より、キラキラ・ファミリーという厳しいけれども温かいコミュニティーに属しているという喜びと楽しみを共有する、
そんな主旨でキラキラ補習塾を続けています。
昨年は、参加人数が多い時で15人、少ない時で6人程度で推移してきました。

2010年、開けてびっくり。
初回の1月9日(土)、ルンルン気分でキラキラに向かいました。
8時半、既に校門前で3人のこどもが待ち構えており、私が逆に大歓迎を受けました。
初回、16人の参加!
あっという間に昨年の最高記録を更新です。

昨年2009年はキラキラにとって最高に祝福された一年でした。
昨年年長組だったこどもたちとは、これまでにない絆が育まれていました。
この1月に1年生となったばかりの彼ら、最初の週を慣れない小学校で過ごしつつも、
「土曜日はキラキラに行こうね」
と話し合っていたそうです。
あぁ、アビカレ!、ムルグイヤ!、パルナカヤ!、シロレ!、デニス!、…。
上は5年生から下は年長組(訳ありの年長さんのみ受け入れている)まで、大盛況です。

下の画像は初回参加の16人。

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2回目の1月16日(土)には18人に膨れ上がりました。
8時、校門前ではなく、50m手前に出てきた4人のこどもたちが、私を熱い握手で迎えてくれました。
勉強中の教室も、遊び時間の校庭も、大盛況。
よその子がフェンス越しに指をくわえてうらやましがって眺めるほどです。

下の画像は2回目参加の18人。

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最初の45分ほどは、口頭で元気よく基礎知識の確認です。
スクワットしながら、1から100まで英語で数えてみたり、
一人一人AからZまで読み上げた後、ZからAまで逆に読み上げてみたり、
曜日の名前、月の名前を一人一人リレーしながら唱えてみたり、
掛け算九九を唱えてみたり、
道徳としてキリスト教やイスラム教で指導している「十戒」を唱えてみたり、
自己紹介や質問の受け答えを練習してみたり、
体全体を使って生きた知識を刷り込みます。

次の45分ほどは、各自教科書を選んで自由学習です。
大きめのこどもは自分で課題を克服すべく、自主的に取り組みつつ、私の指導を求めてきます。
小さめのこどもには、各自の興味や弱点に応じて課題を与えたりします。
手取り足取り指導するのではなく、自主性を身につけさせるのがねらいです。

休み時間には、サッカー、長縄跳び、
はたまた日本から持ってきたメロディオン(ピアニカ)の練習などで、楽しく過ごします。

次の1時間ほどは、
日本の支援者や知り合い・お友だちあてに絵手紙を書き、描き、色を塗ってみたり、
徹底的に掛け算九九や暗記課題に取り組んでみたり、
ちょっとしたスワヒリ語や英語の文章を輪読してみたり、
カードやじゃんけんで遊んでみたり、
その時によって色々です。

そしてジョイスさん手作りの美味しい昼食です。
年齢順に整然と並び、昼食のお皿を受け取っていきます。
小魚、ジャガイモ、豆、緑黄色野菜、その時によってメニューは違います。
しっかり「ありがとう」を言い、お皿もきれいにたいらげます。
お皿や鍋はこどもたちが洗います。

そして、遊んだり、
私のパソコンで自分たちが写った画像や動画を観賞したり、
はき掃除をしたりしつつ、終了の午後2時に至ります。

2時に私も含めて一斉に校門を出て、あとは三々五々。
教会へ行く子もいれば、放牧に出かける子も。
大人しく家に帰る子もいれば、どこか遊び相手を求めて放浪に出かける子も。
ときどき、私の娘を抱っこしに、私とともに家にやって来る子たちもいます。
ナマンガというケニアの田舎町に共存している私たちは、自然と家族同士の交流も盛んになります。
そうやって親しくしつつも、一定の礼儀や規則は守りつつ、キラキラ・プロジェクトは今日も続いていきます。

下の画像、うちの娘を抱っこするマリアです。
1年生になったばかりで、一気に大人になった気分。
毎日小学校で習うお勉強ノートを、夕方私に見せに来ます。
彼女にとっては自慢のノートのようです。

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今年の4月から7月、一時帰国のために補習塾を中断するのがもったいないくらいです。
今年のキラキラ補習塾、昨年を超える祝福がありますように。

相原功志
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by kjkirakira | 2010-01-18 21:48 | 現地で 補習教室・他

キラキラ保育園2010始業

ケニアの学校・行政の新年度は一斉に1月4日(月)に始まりました。
クリスマスと正月のお祭りムードと快眠に、否応なしに終止符を打たねばなりません。

我がキラキラも例外ではありません。
準備万端整えて、4日朝を迎えました。
現地コーディネーターである私自身が6時半に開門。
昨年3学期同様の教師陣、ジャシンタ、ペニナ、アンの3人も早々に到着して心意気を示してくれました。

7時過ぎからすでに事務室の前に行列ができ、対応に追われました。
次々にやって来るキラキラ卒園児とその親たち。
卒園して地元の小学校に進学する際に支援する制服や支度金を手渡していきます。
小学校でも幸運と快適なスクールライフに恵まれますように!と言って送り出します。

そして、次から次へとやって来る新入園児とその親たち。
一人一人ていねいに面談します。
先ずはキラキラ保育園の概要・支払・規則などの説明です。きちんと説明し理解と同意を得ます。
続いて、親の身分証明書とこどもの出生証明書または母子手帳に目を通し、質問しつつ、こどもと家庭の必要な情報を記録します。
同時に親子関係やこどもの性格などを、雰囲気から判断して第一印象として覚えておきます。
片親・両親がいない、大きくなるまでどこの保育園にも入らず家にいた、といった事情のこどもは大歓迎です。
そんな、プロジェクトで支援するにふさわしいこどもが来るたびに、嬉しさと責任感で震えさえ感じます。
「お父さんはいますか?」
「いぃえ…」
「あぁ、いらっしゃらないんですね。大丈夫。キラキラはそんなあなたたちのためにあるんですよ」
とやり取りします。
こどもの情報を記録した上で、入園金50シリング(70円)を受け取ります。
その場で1学期の学費+給食費1000シリング(1400円)を一気に払ってしまう親もいます。
金持ちではないのに計画的にこどもの学費をこつこつためていた保護者の皆さんに、祝福がありますように。
最後に保護者の署名をいただき、こどもを教室に案内し、先生に紹介し、入園手続き完了となります。
ここで親と別れるのですが、人生最初の試練とあって、おお泣きするこどもが続出です。
あまりの試練の唐突さに、気が動転しておしっこやうんちをもらす子も出るくらいです。
入園受け付けをする私だけでなく、不慣れなこどもたちの対応をする先生方にとっても、1年でいちばんハードな時です。

右より、
入園受付時に説明する保育園の概要・支払・規則、
こどもの情報の記録、
保護者のサインまたは拇印

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1日目、受け付けた新入園児は何と15人!
2004年以来のキラキラ史上、最高記録を更新です。
プロジェクトが単なる経済支援だけではなく、内容も充実しているとの評価が定着しつつあるということを知ると同時に、支援を必要としている人たちが減るどころかますます増えているという厳しい現実も知ることになりました。

2日目、受け付けた新入園児は9人。
3日目、5人。
4日目、4人。
5日目、つまり1週目の金曜日、4人。
この時点で、想定していた保育園の定員90人を超えてしまいました。
嬉しい悲鳴です。
支援型の学校の場合、私立学校のように児童数が多ければ多いほど儲かるというのではなく、逆に多ければ多いほど負担が増えてしまいます。
それに、現状の敷地(30m四方)と建物(3教室)では90人が相応です。
一時的に無理をして受け入れたとしても、100人は超えないようにしないといけません。
金曜の夕方、策を講じました。
校門そばの告知板に、「あと3人のみ受け付け可」と書きました。
そして、大きめの子を優先するべく、年齢制限を満3歳(2006年生まれ以上)から満4歳(2005年生まれ以上)に書き換えました。
また、絶対的に支援が必要なケース(孤児、大きめのこども、訳ありのこども)のために、少数の特別枠を残しておくことにしました。

6日目、つまり2週目の月曜日、10時までに3人を受け付けた時点で、「新入園児受け付け終了」と告知板に大きく書きました。
にもかかわらず、11時、12時、13時と、ひっきりなしに校門やフェンス越しに、受け入れて欲しいと打診して来る保護者たちが絶えませんでした。
その後、特別枠にふさわしいこどもを2人追加し、本日、1月15日、10日目(2週目の金曜日)の時点で99人に達しました。
今後受け入れる特別枠を3と想定し、102人で抑えたいところです。

99人に達した2冊にわたる保育園の出席簿です。

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そして、下の画像は、園児たちと先生たちの集合写真です。
午後3時半、帰りの会で校庭に整列し、お迎えの保護者の皆さんが見守る中、
「ほら、ここ(カメラ)から火花が飛ぶからよぉ~く見ていてごらん」
と写真屋さんのテクを使い、見事に撮影に成功しました。

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どうか、2010のキラキラ保育園が、経済的に、社会的に、精神的に、大いに大いに祝福されますように。

相原功志
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by kjkirakira | 2010-01-15 20:40 | 現地で 保育園